記憶
直江庸介を、覚えてますか。
病魔と、そして孤独とたたかいながら
その肉体が滅びるときに、自ら命を絶つことを決めていた彼を、覚えてますか。
その冷たい目の奥深くに、隠しようもないあたたかさを持っていた彼を、覚えてますか。
決意
今日、この病院を辞める。
別れの挨拶をしに上司のところに向かいながら、僕の頭の中には、まったく別の光景があった。
雪に閉ざされ、凛としてそこにある冬の湖。
母の背中のぬくもり。父の死。人が背負う、本当の悲しみ。痛いほどの悲しみ。
あのとき、幼い僕の心に、なにかが滑りこんだ。
あの湖が、あの冬の湖が、僕に医者の道を選ばせたのかもしれない。
僕がいるべき場所は、僕がいたい場所は、ここではなかった。
僕はその日、医者を辞め、そして、医者になろうと思った。
真琴
真琴はたたかっていた。必死にたたかっていた。自分自身の力で勝とうとしていた。
しかしもう、この車椅子からあのゴールに、真琴のボールは、届かない。
「先生」
「大丈夫、大丈夫だから」
「真琴、ナイスシュート」
「今度は元気になったらだね。元気になって、ちゃんとコートに立って決めるから。
そのときも、いっしょにいてくれる?」
「ああ、いっしょにいるよ」
「あったかい」
僕はちゃんと、嘘をつけているだろうか。
僕の嘘は、真琴のまっすぐな心に、真実として刻みつけられているだろうか。
そして、怖くなった。
僕は真琴の強さの前で、ただ嘘をつくために必死で嘘をついているのではないか。
でも、嘘をつかなければ、つきとおさなければ、真琴の心は壊れてしまう。
□ □ □
「それとね」
「ん?」
「元気になったら、いっぱい勉強して、大学行く」
「そうか。で、大学で、どんな勉強するの」
「笑わない?」
「笑わないよ」
「あたしね、お医者さんになる。
直江先生みたいなお医者さんになって、患者さんに優しくして、患者さんの話、いっぱい聞いてあげて、
それで、病気を治してあげたい」
「そうか。真琴なら、きっとなれるよ、そういう医者に」
「じゃあ、頑張って、なるね」
「真琴、ちょっと休んだほうがいいな。休んでから、また話そう」
「ありがとう。先生に会えたからだよ。そんなふうに思えたの。だから教えてね、いろんなこと」
「ああ」
「いっぱい、恋もするんだ。できるよね」
「ああ」
「直江先生より好きな人、見つかるかな」
「…ああ」
「そしたら、その人と…」
真琴は初めて未来を語った。真琴の中に、確かにある未来を。
しかし、僕は忘れていた。それが、来るはずのない未来なのだということを。
それほど、真琴の語る未来は、真琴の言葉は、輝いていた。
今の僕にあげることのできる、たったひとつの、真琴の未来だった。
僕が、真琴の未来をほんとうに来るものとして、いっしょに感じた瞬間があったように、
真琴もまた、僕の嘘の中に入ってきてくれたのかもしれない。
1週間後、真琴は息を引き取った。
そこには、生きていた真琴の、確かにここにいたという証が残っていた。
でも、もう真琴はいない。
16歳の真琴が語った未来は、あの無数の未来は、いったい、どこに葬ってやればいいのか。
□ □ □
「よかったな」
「はい」
「つらいのに、よくがんばったな」
「先生方のおかげです」
「そうじゃないことは、お前がいちばんよくわかってるだろう。
お前を支えたのは、生きようとする、生きたいと思う患者たちだ。
直江、救えなかった命のことを忘れるな。その代わり、救った命のことも忘れるな。
お前が取り上げた赤ん坊の、命の最初の重さを忘れるな」
「はい」
「すべての命に、救うべき心のあることを忘れるな」
「はい」
「よくがんばった。ゆっくり休め」
真琴のことを思った。
あのベッドのくぼみと、まだこの手の中に残る、赤ん坊のぬくもりと重さが、僕の中で重なった。
そして、これからも、出会うすべての命を、その重さを、しっかりと胸に刻み続けよう。
絶望
そして、1週間後、血液検査の結果が出た。
僕の体は、もう、どうしようもなく、壊れ始めているのか。
あまりにも、リアルな恐怖が、僕を鷲づかみし、深い闇底に、引きずり込んでいく。
もし一瞬でも、この恐怖から逃れられるなら、この世のすべての心を傷つけることも、厭わない。
□ □ □
「先生」
「ちょっと、付き合ってもらおうと思ってな」
「ちょっと、待っててもらえませんか」
「ああ、いいよ」
「おい、そんな片付けんでいいよ」
「はい」
「にわかやもめは寂しくてな。一杯付き合ってもらおうと思って。ほら、寿司だ」
「すみません」
「よく降るな。へえ、散らかっとるな。…なんだ、MMの資料、まとめてくれてたのか。この資料、初めて見るな。
寺岡さんのか。いや、それにしては数値が悪すぎるな。誰のだ。直江。どこの患者のだ。
どうしてこれがお前のところにあるんだ。ああ、さっきのあのレントゲン、この患者のか。ちょっと見せろ」
「いえ、先生」
「あ、これか」
「北海大学病院の知り合いから預かったものです。研究の役に立つんじゃないかなと思いまして」
「おい、なんでそんな、すぐわかる嘘をつくんだ。
あそこの患者なら、すぐに連絡が私のところにくることはお前だって知っとるだろう。
骨が若いな。何歳の患者だ。治療はどうなってるんだ」
「もう、手遅れですから」
「それが医者の言う言葉か。本人にはなんと言っとるんだ。え? 直江」
「本人は知っています。わかりすぎるほど」
「男性28歳、既往症なし、自覚症…。28歳…。 直江…、お前なのか? 直江。どうして、今まで…。
MRIの写真は、どうなってるんだ。マルクの標本は。MPは試したのか。Mプロテインの反応は。
直江。おい! これ以上の現実を見るのは怖いと思ってるんじゃないだろうな。病院に行こう。調べるんだ」
「先生、先生! 僕は医者です。もうどうしようもないことぐらいは…」
「ばか! 医者である前に人間だろう。人間ならそんなに、簡単に納得しない。
なんにもしないでそんなに死を簡単に納得するな。これが、この顔が、納得してる顔か。さあ、行こう、早く。おい!」
「あるはずだ。まだ、何か方法が…。私は研究を続けてきた。薬の開発にも携わった。お前にも手伝わせた。お前にも。
それが、それが、何でお前が…」
「先生。もういいです、もう…僕の体のことは」
「直江! …直江! 直江! 直江! 直江…」
「どうして、どうして、僕が…」
「私がお前を助けるから…私が助けるから…直江…直江…」
冬の湖
何かから逃れるように、僕はここへ来ていた。
怖かった。どうしようもなくひとりだった。
ひとりなら、それが運命なら、誰に知られることもなく、ひとりで消えてしまいたかった。
それは、昔、母が持っていたストールに似ていた。
母は、死に急ぐ息子を、どう思うだろう。
この場所に、初めて連れてきてくれたのは母だった。
父が死に、母は、僕と姉を連れてここに来た。そして、あそこで泣いていた。
僕はあのとき、死ぬのだと思った。
「おかあさん」
「ごめんね。もうおしまい。自然はすごいね。自然はね、生きる力をくれるの。だから、おかあさんは、もう大丈夫」
「あたしね、お医者さんになる。ありがとう、先生に会えたからだよ。そんなふうに思えたの」
遠い日の母が、真琴が、僕に逃げるなと、言ってくれていた。
僕は、この冬の湖に、弱い自分の心を沈めよう。
未来
「これから東京へ?」
「はい、知人のつてで、行田病院というところに就職を決めてきました」
「何を言っとるんだ。私はお前を入院させて、私のこの手で…」
「先生の気持ちは、とてもうれしいです。でも、どんなに手を尽くされても、僕は死にます」
「直江」
「それなら、手を尽くされるのではなく、死に対して、手を尽くす者として、残された時間を生きたいんです。
死を覚悟した、今の僕だからこそできる医療のために、強く生きたいんです」
「なんで、そんなに自分に残酷になるんだ」
「できることを何もやらず、最後に後悔するほうが、残酷だと思います。
僕は、医者として、最後まで…。それが、僕に残された未来なんです」
「それならここでもできるじゃないか。なんで東京なんだ」
「ここには、優しさがあふれすぎています。僕はきっと、それに甘えてしまいます」
「それじゃ、止められないな。縄で結わいて止めても行くやつだ。直江庸介というやつは。
私は、送りには行かんぞ。そんなわがまま自分勝手なやつを、優しい気持ちで見送る気なんかないからな。
ひとりで勝手に行ってこい!」
□ □ □
「女房から預かったものがあってな。それを渡さなきゃと思い出してな。
あいつ、お前のためにマフラーを編んでたんだ。もらってやってくれるか。
別にわざと忘れてたわけじゃないぞ。来るつもりはなかったんだ。
また、いつだって会えるんだ。会えるんだぞ。私たちはいつでもここにいるからな」
「はい」
「直江〜〜! 生きろ〜〜! 生きるんだぞ、直江、直江…生きろ…」
□ □ □
七瀬先生、僕は生きます。最後に、あの湖を訪れるその日まで。
希望
先生のこと、昨日、七瀬先生からたくさんうかがいました。
思い出が増えたようでうれしいです。
「ほら見て。おっきいでしょう。
ほら陽介、きらきらしてて、きれいだね。
先生。見えますか? 私たちの陽介。大きくなったでしょう」