「おはようございます」

「ん」

 

 

 

嘘の中

 

「僕たちの嘘に気がついている。自分の最期が近いことを感じている。

春の話はしても、病状や退院の時期のことは聞いてこなくなった。

嘘の中にいるからだ。僕たちができるのは、この嘘を突き通し、最後まで手を尽くすことだ」

 

   □   □   □

 

「奥さんには、すべてを話したほうがいいんじゃないですか?」

「石倉さんは、実は癌だったと言えということですか」

「そうです。ショックは受けるでしょう。

しかし、先生の嘘で、一時的にせよ、石倉さんは笑顔を見せるまでに元気になった。

きちんと説明すれば、奥さんだってわかってくれる」

「その説明に、何の意味があるんですか」

「何の意味って」

「それは医者の重荷を患者の家族に押し付けることになるだけです。

人の死を前にして、家族に苦しみを与えることに何の意味があるんですか」

「このまま真実を知らずに、石倉さんに先立たれたら、奥さんがどれだけ悔やみ、悲しむか、

先生にだってわかるでしょう? 奥さんは、これからも生きていかなければならないんですよ」

 

    □   □   □

 

「石倉さん、もしかしたら、自分が怖いからじゃなくて、奥さんのために、嘘に入ってきたんじゃないでしょうか。

奥さんが、つらい思いをしないように。少しでもふたりが長く幸せにいられるように」

「そうかもしれないな」

「先生は…。先生は、今夜から石倉さんのほうに?」

「何かあったらすぐ連絡するから」

「はい。お疲れさまでした」

  

 

 

ぬくもり

 

「信じられないです。石倉さんが、あんなこと…」

「どうして、抱いてあげなかった。抱いてほしいと言われたら、抱いてあげればいいじゃないか。

抱くのはいやか」

「看護婦が、そこまでやらきゃいけないんですか。

なんで、なんで先生は、そういうふうに、たいしたことじゃないみたいに言えるんですか」

「死ぬからだ。

石倉さんは、近いうちに死ぬ。その前に、心から女性に抱かれたいと思った。

やすらぎを求めたのか、生きるものの本能なのか。そうせずにはいられなかった。

きっと、死ぬということは、そういうことなんだろう。

どうしても嫌というなら、それはそれでしょうがない」

 

    □   □   □

 

「どうした?」

「石倉さん、すごくあたたかかったです…」

 

 

ハーモニカ

 

「先生」

「はい」

「生まれて、よかったぁ。あんただって、そうだろ?」

「ええ」

「おもては、あったかいかい?」

「ええ」

「ああ、そう。じゃ、春もじきだ」

 

 

遺書

 

行田病院のみなさま。ありがとうございました。

手術、ありがとうございました。

心あたたまる治療をありがとうございました。

志村さん、タンポポ、ありがとうございました。

小橋先生、やさしさ、ありがとうございました。

直江先生、嘘を、ありがとうございました。

ミツ、ありがとう。

あなたと生きられて、石倉由蔵は幸せでした。

みなさま、本当に、ありがとうございました。

 

     □   □   □

 

「石倉さん、納得して旅立てたんですよね」

「僕たちが整えたのは、あくまで形だ。死ぬのが怖くない人間なんていない。石倉さんの強さがすべてだった」

「はい」