嫉妬

 

「やっぱりいてくれたのね」

「小橋先生のところへ行け。もう来ないでくれ」

「どういうこと、それ」

「君とはもう終わりだ」

「嘘でしょ。急にどうしたの。私と小橋先生のことで、怒ってるの?」

「愛してるから抱いてたわけじゃない」

「志村倫子ね」

「…関係ない」

 

   □   □   □

 

「あの、お話ってなんでしょうか」

「あなた、直江先生の何?」

「は?」

「あなた、彼のマンションに行ったことあるわよね。看護婦のあなたが何しに行ったの」

「ちょ、ちょっと待ってください」

「何しに行ったのか聞いてるの。答えなさい」

「プライベートなことですから、お話する必要はないと思います」

「あなた、彼に抱かれたことある?」

「…」

「わたしはあるわ。何度も…。だから、もう私たちの邪魔をしないでくれない?」

「なんでそういうこと言うんですか。愛されてるなら、それでいいじゃないですか」

「わかんない人ね。あなたがかわいそうだから言ってあげてるのに」

「そういうことなら、心配していただかなくて結構です。失礼します」

「あなたには無理よ、あの人は」

 

 

 

恩師

 

「こっちの病院の人たちとは、うまくやっとるのか」

「ええ」

「は、なんだか、田舎から息子に会いに来たおやじみたいだな。

どうしてるか気になってな。顔が見たくてね」

「ありがとうございます。僕のわがままで先生の病院をやめたのに、そんなふうに言っていただいて」

「相変わらず、体のことは誰にも言っとらんのか」

「…はい」

「そうか」

 

 

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「行田病院で、撮っとるのか」

「はい、カルテには先生の名前をお借りしています」

「あ、この7は、七瀬の7か」

「はい。これがいちばん最近の写真です。

薬で抑えていたカルシウムとアルフォスの数値が上がってきたので、1回の摂取量を増やしました。

そのデータがこれです。カルシウムとアルフォスの数値の上がり方が緩やかになってます。

ギリギリでなんとか踏みとどまっている感じですね」

「これを、お前がひとりで作っとるのか」

「はい」

「専門の私が見てもよくできてるよ。よくできてるだけに、つらいな」

「しかたありません。医者も病気になります」

 

「おい」

「いいんです」

「いいって、お前、病院だったらどうするんだ」

「病院からなら、ポケベルが鳴りますから」

 

「これが、フロノスの副作用に関するデータです。

確かに破骨細胞を抑制するようですが、副作用そのものも、さほど…」

「直江。私といっしょに長野へ戻ろう。

お前がひとりでこの部屋で病気と向かい合っていると思うと、俺はやり切れん。

私に、できるだけのことをさせてもらえないか」

「ありがとうございます。でもまだ、ここでやるべきことがあります。

この残された時間を納得して過ごしたいんです。

先生には、ほんと、いろいろなことを教えていただきました。

その先生の教え子として、最後まで、医者でありたいんです」

「頑固なやつだ」

 

 

 

死の形

 

 

「先生。あとどのくらいで退院できるのかね」

「もう少しの辛抱です。がんばってください」

「がんばれ、か…。いや、でもこの病院に来て、ほんとよかった」

「そうですか」

「直江先生に会えてよかった。あの人、目が優しくてね。

あの目がいつも、大丈夫ですよ、って言ってくれてるんだ。

がんばれ、じゃなくて、大丈夫ですよ、ってね。

病人はね、みんな言われなくてもがんばってんだよ。あの先生、それをちゃんとわかってくれてる。

あ、他の先生の話ばっかりしちまって、すまなかったね」

「いいえ」

 

    

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「石倉さんの言うとおり、先生は最後まで、がんばれとは言いませんでしたね。

いや、実は今日言ったんです、石倉さんに、がんばってくださいって。そしたら注意されましてね。

患者はみんな、言われなくてもがんばってる。直江先生は、そのことをよく知ってるって。勉強になりました。

しかし、石倉さん、自分の力で痰をとれなくなってきてるってことは…」

「たしかに、たしかにもう時間は少ない。でも、こんな突発的なことで死なしてはいけないんです。

われわれは最後まで全力を尽くし、死の形を整えてあげなければならない」

「死の形…」

「ひとつの命のために、どれだけの手が尽くされたかを知ることで、

本人も残される家族も、ようやく納得することができるんです。

そんな最期を迎えさせてあげたい」

「ほんとうに、そんなものがあるんでしょうか」

「そこに導くのも、医者の仕事ではないでしょうか」

「ずっと臨床でやってきた先生らしい考え方ですね。

しかし、こんなことを言ってはなんですけど、さっき処置をしていたときの先生は、

いつもの冷静な先生とはまるで別人のように感じました。

うまく言えないけど、あれは、医者の顔じゃなかった」

「…失礼します」

 

 

 

 

別れ

 

「今年、雪はどうでした」

「ああ、今年も雪は多いよ。帰ったらまたすぐに、雪かきの陣頭指揮だ。

お前と違って今の若いのは雪かきが下手でな」

 

「そういえば、お前が初めて病院に来たときはやっぱり雪だったな」

「先生、雪かきしてましたね」

「荷物をそこらへんにポーンと置いて、手伝ってくれたな。…ふたりで並んで、雪をかいたな」

 

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「東京の変わり方っていうのは、いつ見てもすごいね。

私が新婚旅行に女房と来たころは、信じられないくらいのんびりしてたよ」

「奥さんの3回忌には、伺えなくてすみませんでした」

「ああ、いいんだよ。私がちゃんと、あいつのことを覚えていてやれば、それでいいんだ。

それが、あいつを見送った私のつとめでもある。また、幸せでもある。

あ、あれだ。松本行きだ」

「はい」

 

「じゃあ、しっかりな」

「先生も、元気で」

「直江、私、ほんとうは、今のこの瞬間にもお前の首根っこをつかまえて、連れて帰りたいよ。

私は、教え子を立派な医者に育て過ぎたようだな。

…私も年をとった。すぐに涙が出る。

頼むから、ひとりで抱えこもうとするな。自分が、ひとりぼっちだなんて思うなよ。いいな」

 

 

 

ゆりのき橋

 

「先生、ほら、すごいでしょ、こんなにたくさん」

「君は不思議な人だな」

「え?」

「こんな冬に、春を見つけて」