ガラスのボート
「なんで戻ってきた」
「先生が…消えちゃいそうな気がして」
「私が、私が、そばにいます。だから…」
「俺を助けようなんて思うな」
「何があったんですか」
「もう帰れ」
「先生」
「出てけ!」
「…何があったんですか」
「関係ない。帰れ」
□ □ □
「あ…あの」
「なんだ」
「ちょっといいですか。…すぐ帰ります」
「何」
「昨日のこと。先生も、何かあったんでしょうけど、私もいろいろあって。
そう、それで、混乱してあんなこと…。失礼しました。…用件は以上です」
「わかった。」
「あ、あの、あともういっこだけ。…どこか、具合が悪いとか、そういうことあるんですか」
「いや」
「あ」
「忘れよう。お互い」
「はい」
「じゃあ」
「石倉さん、変わりないか」
「ええ、調子いいみたいです」
「そう」
「すごく、寂しがってます」
「…」
「石倉さん」
「今の状態は一時的なものだ。気をつけておいてくれ」
「はい。…それじゃ。…あ。これ、さっき川原で見つけたボートです」
「…」
「それじゃ…」
フロノス
「じゃあこれ、たしかに」
「来週、もう一箱ほしい」
「だけど、この薬は、2週間ごとという約束で…」
「君には迷惑はかけない」
「でも、これは治験薬ですから、私も詳しく使い道を…」
「データはちゃんと渡してる。問題ないはずだ」
「できるかどうか、やってみますけど」
「じゃあ、わたし、そろそろ」
「飲んでいかないのか」
「ごめんなさい。今日はもう行かないと」
「帰らないでくれ」
「先生…?」
困惑
「直江先生。石倉さんの奥さまから電話があって、今日はご都合がつかないそうです」
「わかった」
「…」
「ちょっと待って。今入院してる患者で、生活保護を受けている人はいるか」
「生保の患者さんでしたら、小橋先生のところにおひとり」
「そう」
「あの…煙草、吸いすぎなんじゃないですか?」
「もう戻っていいぞ」
「…先生って、大人なんですね。全然平気そうな顔して。
私、先生と会うとき、どんな顔したらいいんだろうって、朝からずっと不安で。
なのに先生は、まるでなんにもなかったような顔して」
「何もなかったんだ」
「そうやって、いつも感情とか、気持ちとか押し殺してるから、そういうふうに無理してるから、
ときどき、あんなに苦しそうなことに…」
「忘れることにしたんじゃなかったのか」
「でも…先生の涙は忘れられません」
「言ったことに責任を持てないのは、大人じゃないっていうことだ」
「自分に嘘をつくのが大人だったら、私は、大人じゃなくていいです」
死に方の問題
「僕の患者の名前を?」
「先生の患者で、生活保護を受けている方の、名前をお借りしたいんです。
石倉さんに、アルブミンを出すために」
「国民健康保険では今月もう出せない分を、その患者の名前を使って請求しようというわけですか」
「生活保護を受けてる患者なら、制限されることはない」
「しかし…」
「今アルブミンを補充しなければ、石倉さんの寿命を縮めることになる」
「でも、そういうやりかたって、まずいんじゃないですか」
「人の命がかかってる」
「でもやっぱり、ちょっと乱暴なんじゃないかな。保険のルールを曲げるようなやりかたっていうのは」
「そうでしょうか。石倉さんご夫婦は今まで一生懸命働いてきた。
奥さんは今も、入院費を払うために働いているんです。
必死に働き続け、保険料を払い続けてきた石倉さんに、1ヶ月にたった6本分のアルブミンで納得しろと言うんですか」
「アルブミンにこだわるのもわかりますが」
「アルブミンがあれば、石倉さんはまだ生きられる。生きられる道がある以上、死なせるわけにはいかない」
「しかし、告知もせず、嘘の手術をした上に、保険のルールまで破るっていうのは」
「たとえ告知をしていたとしても、あの手術をしていなかったとしても、私は、同じことをしていました。
これは、生き方ではなく、死に方の問題だからです。
石倉さんが自らの死を感じたとき、自分の命のために、どれだけの手が尽くされたかを知ることが大事なんです。
そこで初めて、人は、死を納得しようとするんです。どうか、お願いします」
「…わかりました。院長には報告せず、あなたと僕の間だけということであれば」
「小橋先生」
「ありがとうございます」
□ □ □
「楽になった。…春になったら、タンポポの土手で、思いっきり吹きてぇな…」
「とりあえず、インアウトと体重、それと腹囲をチェックしといてくれ」
「…」
「どうした」
「石倉さんを連れてってあげたいです。タンポポの咲く土手に」
「そうだな。行けるといいな」
「はい」
拒絶
「ひとりで、ボートに乗ってきました。先生が言ってたみたいに、ほんとに川が近くにあって、空も近くて…。
でも、空と水の間に、自分ひとりだけがいるみたいで、すごく寂しかった。
先生がいっしょにいてくれたらいいのに。先生が見えるものを見て、先生が感じることを私も感じて、
もし、見えるものが違うなら、教えてほしい。私、先生が何を感じたのか知りたい」
「何を勘違いしてるんだ」
「先生のそばにいたいんです。先生が、苦しいときも悲しいときも、いっしょにいられればいいんです。
いつもそばにいたい。この気持ちには嘘をつきたくないんです」
「そんなことを言われて、俺が喜ぶとでも思ったか。言いたいことはそれだけか」
「…」
「それ、持って帰ってくれ。迷惑なんだ。
俺は、君が思っているような男じゃない。
もう二度と、ここへは来るな。わかったな」