タクシー

 

 

「おい。乗れよ」

「いいです。バスで行きます」

「今行ったばっかりだろ。遅刻するぞ。

少し、話がある」

 

「夕べは悪かった。…忘れてくれ」

「え…忘れてくれって」

「あ、それと、今度の月曜日、石倉さんのオペをやる。ついてもらうから、そのつもりで」

「え、あの、石倉さんのオペって…あの、胃癌の。オペって、どうして私なんですか。

嫌なら病院やめろって言ったの、先生じゃないですか。昨日、後悔するくらいならやめろって」

「でも、君は来た。ここにいるじゃないか」

 

 

 

対立

 

 

「直江先生。石倉さんのオペをするって、本気ですか」

「ええ」

「オペをすることで、石倉さんの死期を早めることになるんじゃ」

「いいえ」

「しかし、末期癌の患者にこの時期オペをする意味があるんでしょうか」

「開腹して、中を見るだけです」

「どういう意味ですか、それ」

「本人は、潰瘍を切れば、よくなると信じております。だから、悪いところはすべて、取ったと思わせます」

「嘘のオペをするということですか」

「はい」

「はいって」

「失礼します。石倉さんのカルテとレントゲン写真、持ってきました」

「ああ、ありがとう。そこのデスクに置いといて」

「はい」

「嘘のオペって、院長はそのことを」

「許可はもらってます」

「それじゃ、あまり石倉さんをばかにしていませんか。どうだったと聞かれたらどうするんです」

「大きな胃潰瘍があったと言います」

「そんなことをして、だまし続ける意味があるんでしょうか」

「どちらにしても、癌を告知していない以上、嘘はつき通さなければなりません」

「皮膚を切ってまで、だまし続ける意味があるとは思えない」

「考え方の違いですね」

「オペをしたのにどうしてよくならないんですかと聞かれたら、どうするんです」

「黙って聞いてます」

「治らないことで、石倉さんは、先生を恨みます」

「そうかもしれませんね」

「それじゃ、嘘の上塗りじゃないですか。ひとつの嘘がどんどん大きくなって、

病院中の人間が嘘をつき続けなければいけない」

「嘘かもしれないが、生きる希望を与えることで、病状がよくなることも考えられます」

「私も、私も石倉さんのオペは、納得できません。もしオペをして、症状が変わらなかったら、

嘘をつかれてるとわかったときの、石倉さんの気持ちを考えると、人を恨みながら死んでいくのはつらすぎます」

「すべての嘘が、不幸とは限らない」

 

 

 

 

 手術

 

 

「今からでも遅くない。石倉さんに癌の告知をして、いっしょにたたかうことのほうが、

嘘のオペを行うことよりもよっぽど誠実なやり方だと思う」

「彼には、告知は受け止めきれない。今の体力では、よけい無理です」

「一時的に患者を安心させるためだけにオペを利用するなんて、医者の傲慢です。

医者は、あくまでも患者に対して、誠心誠意、真実をもって尽くすべきなんじゃないですか」

「先生は、患者の家族ですか。医者ですか」

「もちろん医者です」

「それじゃ、家族みたいなことを言うのはやめてください」

「僕は医者だが、その前にひとりの人間です。人として、患者をだますようなやり方を認める気にはなれない」

「僕は、ヒューマニズムにおぼれるつもりはありません。何よりも前に、医者ですから。それじゃ、時間なので」

 

    □    □    □

 

「夕べ、石倉さんのことを考えてました。

私たちが嘘をつくことで、石倉さんが少しでも生きる気力を取り戻してくれるならって。

でも、先生は、嘘をつくことが怖くはないんですか」

「怖くはない」

「私は怖いです。嘘をつき通せるか、不安です」

「いずれ石倉さんは、嘘に気づく。でも、君は、嘘をつき通すんだ。

嘘とわかっていても、何も言わないし、誰も恨まない」

「どうしてですか」

「聞くのが怖いからだ。誰かに何かを言われなくても、自分自身のこととして、死を静かに感じて…、

自分から嘘の中に入ってくる」

 

   □    □    □

 

「終わった。あと2時間、ここにいてくれ」

「え」

「早く終われば、家族は不審に思う。座って待っててくれ」

「はい」

 

「どうした」

「オペ中ですから」

「座ることは、嘘をつくことになるからか」

「これから、嘘をつくために、立ってます」

 

  □   □   □

 

「まあ、確かに、一時的にせよ、石倉さんに生きる希望を与えるという直江先生の目的は、達せられたのかもしれない。

でもね、彼の病状はなんにも変わってないんだ。いつか嘘に気がついたとき、彼がどんな苦しい思いをするか」

「でも、石倉さん、笑えたんです。もう、笑うことなんてないかもって思ってたけど、心からうれしそうな笑顔でした。

私、ちょっとわかったかなって。すべての嘘が、不幸とは限らないっていう意味」

「え?」

「だって、笑えるって、幸せなことですよね」

「その幸せが、嘘で成り立っているとしても?」

「たとえ嘘でも、今だけの幸せだったとしても、私だったら、感謝するかもしれない」

「そう。でも、たいへんなのはこれからだよ」

「はい」

 

 

 

納得した死

 

 

「お疲れさまでした」

「ああ、お疲れさま」

「直江先生」

「石倉さんのところで私…、すみませんでした」

「ああ、大丈夫だ」

「石倉さんが、うれしそうに春の話をしているのを見てて、私、なんだかあの手術が嘘とは思えなくて。

元気に春が見られそうだなあって」

「それは、無理だろうな」

「あの…、先生は、石倉さんのこと、なんでもわかるんですね。

私なんか、なんにもわからないし、なんにもできなくて、ただ悔しくて。

どうしたら、石倉さんの気持ちまでわかるんですか」

「わかっているのは、今の医療では彼を救えない。

だから、あとはいかに、納得した死を迎えさせてあげられるかだ」

「納得した死…」

「そのために僕は、医者としてやるべきことをやる。君も看護婦として、やるべきことをやればいい。

そのために、この病院に来たんだろう」

 

 

 

孤独

 

 

「たいへんだね。先生の奥さんになる人は。

ねえ、今まで付き合った女の人ってさ、そうやってなんにも言わなくても、

あなたの考えてることとか、わかってくれたわけ?

長野の病院にいたときってさ、恋人いなかったの?いないわけないよね。じゃあ、その人は…。

…なに?」

「昔のことは忘れた。これからのことも」

「…ほんとうに、私のこと見てるの? 私のこと見てるふりして、いつも…別のところを見てるのね」