嘘
「学生のときに痛めた腰椎が、今になってちょっとあちこちに響いている。疲れやすいのもそのせいだ」
「じゃあ、ちゃんと診てもらわないと」
「今すぐどうこうなるようなものじゃない。痛み止めの薬もある。旅行から帰ったら治療する」
「治療?」
「大丈夫だ。医者が言ってるんだから」
「どうして今まで話してくれなかったんですか」
「だから、たいしたことはない」
「じゃあ、なんで今?」
「君と北海道に行きたいからだ。旅行へ行って、具合が悪くなることもあるかもしれない。
そのとき、理由がわからなかったら、君を不安にさせるだけだ。
それに、僕のことは何でも君に話すって、約束しただろう」
「ありがとう。話してくれて。でも、お願いだから、無理はしないで」
「ああ」
友
「直江先生。北海道へ行くって、本当ですか」
「まず仕事をさせてください」
「その体で旅行なんて無茶だ。
確かにあなたの人生です。あなたにはあなたの生き方があるというのもわかる。
でも、彼女はどうなんです。残される彼女は。
もう時間がないとわかっていれば、もっと話したいことがあったと、もっともっとしてあげたいことがあったと、
そう思うんじゃないですか?
僕だってそうだ。友人として、何もできないことが悔しい。なんで君が…」
「ありがとうございます」
「本当に、最後まで彼女には、何も言わないつもりなんですか」
「彼女なら、わかってくれます。そういう人だから、僕は、彼女を愛することができた。
今怖いのは、自分の体のことじゃない。
愛する人から笑顔が、僕の前で笑顔が消えることが、いちばん怖いんです」
母
「母親としては、やはりいろいろ心配なんですよね。倫子はまっすぐっていうか子どもみたいに危なっかしいとこあるし」
「倫子さんは、しっかりした人です」
「そうですか?」
「ええ、看護婦としても、ひとりの女性としても」
「支笏湖ですって? 行くの」
「はい」
「そこにどうして倫子を、って思われたんですか」
「子どものころから、北海道でも、いちばん好きな場所でした」
「だから、倫子にも見せたい」
「ええ」
「あの子がしっかりしてるかどうか、母親としてはわかりませんけれど、あの子、頑張り屋だとは思います。
ひとつくらいほめとかないとね。あとは、先生に見つけていただきたいから、やめておきます」
「彼女が、ああいう女性になった理由がわかりました」
「え?」
「あったかくて、強くて。お母さんがいらっしゃったからですね」
「ありがとうございます」
「もしもし」
「もしもし、私。すみませんでした。母がいきなり押しかけて」
「いや」
「母と話してくれてうれしかった」
「いいお母さんだな」
「母も、先生のこと、いい人だって。私たちのこと、信じるって言ってくれて」
「そうか」
「明日ですね」
「ああ」
「いっしょに見られるものがあるってうれしい」
「僕もだ」
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
支笏湖
「先生…。ここ、先生の部屋の写真の」
「ああ」
「そうなんだ」
「ここは、僕にとって、心がいちばん落ち着く場所なんだ。だから、君といっしょに来たかった」
「静か…。なんか怖いぐらい」
「ここは、火山の噴火でできたカルデラ湖だ。とても深くて、今も底には枯れた木立が沈んでいると言われている」
「枯れた木立…」
「ああ」
「だから、ちょっと近づきにくい感じがするのかな。…先生と似てる」
「ん?」
「初めて見ると、ちょっと怖くて冷たそうで、でも、そばまで行くと、やさしく包んで守ってくれる」
「守られてるのは、湖のほうだ」
「え?」
「冬の真っ白な雪や、春の輝いた緑に包まれて、湖はただそこにある。自然の命が湖を守ってくれている。
季節によって、湖の色はどんどん変わっていくんだ」
「また、いっしょに来るなら、春がいいな。そしたら、今度こそいっしょにボート乗りましょ」
「君は明日、東京に帰るんだろ。僕はこっちで、もう少し人と会っていくから」
「はい。じゃ、東京で」
「僕はいつでも君といっしょにいるよ。君のそばにいるから」
「いっしょに来れてよかった。心がまっさらになって、素直にがんばろうって思える。
私たち、今、同じものを見てる」
「ああ」
「同じことを感じてる」
「ああ、同じだ」
知らせ
「はい、志村ですが」
「志村倫子さんですか」
「はい、そうです」
「わたくし、札幌の直江と申します。直江庸介の、姉です」
「あ、ああ、どうも」
「庸介が、亡くなりました」
「え?」
「死んだんです」
「死んだ…? 直江先生がですか?」
「はい」
「…なんで」
「支笏湖で、自ら命を絶ちました。
今朝、庸介がボートで漕ぎ出すのを見た人がいて、それから行方不明に…。
それで、ついさきほど、ボートだけが見つかって、そこに、庸介のコートが…」
ビデオレター
どうしても、自分の口から出る言葉で、君に伝えたかった。
今の君にとって、僕の姿を見ることが、つらいことだとわかっていても、君に伝えたかった。
僕は、多発性骨髄腫。
それも末期だ。もう助からない。もうじき、歩くこともできなくなる。
君と出会ったころの僕は、死ぬ運命の中で、もう誰も愛さないと決めていた。
でも、君と会ってしまった。いや、君に会うことができた。
君は、きれいな目をして、暗闇の中にいた僕にはまぶしかった。
僕は、最初から、その時が来たら消えようと、滅んでいく体を水の底に深く沈め、きれいに消えようと決めていた。
でも、それでも、怖かった。迫ってくる死が怖かった。怖くて、やけにもなった。
そんな僕を、君が包んでくれた。そして、救ってくれた。
僕のわがままだったんだ。
最後の最後まで、君にそばにいてほしかったこと。君ひとりを残して、自ら死んでいくこと。
すべて、僕のわがままだった。
僕は、この病気のことをよく知っている。自分に残された時間のことも、よくわかっていた。
だから、自分の意思で、納得して死のうと思った。
君と出会い、心から、本当に、よかったと思えたから。
君のお母さんに会って、君もいつか、こんな素敵な母親になるんだろうな、って。
いつか君が、愛する人の子どもを産んだとき、僕は、笑顔で、祝福を送りたい。
そろそろ出かけないと…。君が待っている。
君の笑顔が、倫子の笑顔が、大好きだ。だから、泣かないで。
愛してる。