当直
「直江先生ですか。あの…」
「患者は」
「あ、今処置室に」
「あの、今日から外科で働いている、志村と申します」
「バイタルは」
「血圧は140の80、脈96です」
「傷の深さ」
「出血がひどくて、あの、すみません」
「準備は」
「できてます」
「酒臭いかな」
「はい、だいぶ飲んでるみたいで、興奮してます」
「いや、俺のこと」
「…はい、ちょっと」
□ □ □
「あの、いくらなんでもトイレはないんじゃないですか。彼、あ、あの人怪我してるんですよ。
それをトイレに押し込めるなんて、傷から感染したらどうするんですか」
「だれも、額を便器に押しつけろとは言っていないけど」
「それはそうですけど」
「彼が暴れて、床や壁に血がついても、トイレなら掃除がしやすい」
「だからって、トイレってことはないじゃないですか」
「それに、頭を冷やすには、結構いい場所だ」
渡り廊下
「直江先生。305号室の戸田くんが入院してきたとき、金がないなら治療はしない、って言ったってほんとうですか」
「来たんですか。仲間が」
「ええ」
「甘やかさないほうがいいですよ、ああいう連中は」
「本人にも、入院費は払えるのかというみたいなことを」
「言いました」
「医者がそんなことを」
「救急病院を、コンビニか簡易の宿泊所みたいに思われたら困る」
「そんな言い方ないでしょう。みんな、病院を頼ってきてるんじゃないですか」
「ここは、戦時の難民キャンプですか」
「え?」
「医療は、慈善事業じゃないんです」
許可
「なるほど。もって、あと2ヶ月ね」
「はい」
「で、この石倉さんがなにか?」
「オペの許可をいただきたいんですが」
「オペ。確か大学病院から回されてきたときには、もうオペは意味がないと。
それとも、先生がオペをなさると、少しでもよくなるということですか」
「いいえ。よくはなりません」
「では、どうして。下手にオペをすると、癌細胞を活性化させて、さらに死期を早めるだけではありませんか?
オペをしたことで死んだということになると、かえってまずいことになります」
「開腹するだけです」
「ん?」
「開くだけで、中には一切メスを入れません」
「オペをしたように見せかける」
「本人は、オペをすれば、よくなると思っています」
「癌の告知は、まだしていないんでしたね、ご家族にも」
「胃潰瘍と言ってあります。あの夫婦には、告知は受け止めきれないと判断しました」
「しかし、ばれたら、大変なことになる」
「傷口を見れば、本人は、胃潰瘍のオペをしたと思います。疑いなどしません。
彼が生きる意志を持つことで、病状も一時的ですが、軽減するはずです。
病院の記録上も、胃癌のオペとしておくつもりですが」
「保険の点数も、加算されるか…。おまかせしましょう」
「ありがとうございます。失礼します」
「何を考えているのやら」
「嘘をつくことに、自信があるんでしょ」
「なんだ。聞いていたのか」
「経営者の娘としては、いろいろなことを把握しておかないと」
「しかし、油断ならん男だ」
抗議
「何か?」
「あ、あの、他の人はまだ…」
「他?」
「今日の会の待ち合わせ、ここでって」
「会。え、なんだっけ」
「あ、私の、歓迎会」
「ああ、僕は出られない」
「あ、じゃあ…」
「あの、石倉さんのことなんですけど。石倉さんがおっしゃってたんですけど、手術をするって」
「病院以外で、仕事の話はしないことにしてる」
「あ、でも、末期癌の患者さんに、手術って…」
「先生、ご出身、北海道なんですってね。高木さんから聞きました。雪、多いとこですか?
私、新潟なんですけど、東京出てきたときに、ああ、雪かきしなくていいから楽だなって思って。
あ、でも、私、母がずっと看護婦やってて、ずっと忙しかったから、小さいころから、雪かき、私の仕事だったんです」
「そういうの、父親がやるんじゃないの」
「両親、離婚してるんです。私が小さいころに」
「そう」
「で?」
「はい?」
「いや、まだ、何か?」
「あの、何かって」
「まだそこにいるから」
「あの、当直の日にお酒飲みに行くって、どういうことでしょうか。
私、行田病院に期待してたんです、すごく。前の病院は、看護婦なんかただのアシスタントって感じだったけど、
でもここは、患者さんの気持ちを大事にして、医者と看護婦が協力しあってるって聞いてたから。
だけど、ちょっとがっかり。医者がお酒飲みに行っちゃうし、患者をトイレに押し込んだり、結構むちゃくちゃって感じで。
それに、治療よりお金のこと気にしてるし。夜中に女の人と会ったり」
「そのことで、君に迷惑をかけた?」
「私に迷惑とか、そういうことじゃなくて」
「じゃあ、戸田次郎の、君の友達のことで、むきになってるわけだ」
「違います。そんなんじゃありません。
私にしたって、次郎のことは別に…私だって、なんでこんなことになるかなあって。
前の病院やめたのも、次郎が院長の息子さんとけんかして…。
だけど、私なりにこの病院でちゃんとやり直したかったし、看護婦続けていきたいから、
ほんとにここで一生懸命やっていこうって、一人前の看護婦になろうって…。
そしたら、最初の日から、信じられないことばっかり。なんか、おかしいんじゃないですか、この病院。
救急の患者さんが来たとき、先生がお酒なんか飲んでたら、死んじゃうことだってあるでしょう?
私にはなんにもできないけど、でも、私たちが一生懸命やらなきゃ、人の命なんか助けられないと思います。
直江先生のやり方って、むちゃくちゃですよ。人の痛みとか、苦しみとか、命とか、軽く見てませんか。
先生がどれだけ優秀な方かは知りませんけど、こんな非常識なやり方が通用する病院は絶対おかしいと思います」
「嫌ならやめればいい。後悔するぐらいなら初めからやめとけ。時間の無駄だ」
「あ、私のケーキ代…」
「やめるんだろ。餞別だ」
プロローグ
もう人を愛することはないと思っていた。
なのに、いつのころだったろう。
君と出会い、自分の中で、何かが変わり始めたのは。